妊婦

先日、日本で診療していた症例のレポートがアクセプトされたという報告を受けました。

この症例は個人的に大変印象深い症例でしたので、こちらに紹介させていただきます。

 

私は、研究室の属する大学病院で週1回、その関連病院で週1回、脳神経内科の外来診療をしていました。

ある日、一人の女性が分厚い診療情報提供書と共に大学病院の外来を受診しました。

彼女は、その1年前に硬膜外麻酔で無痛分娩後行いましたが、麻酔が切れても会陰部に感覚障害が残り、触った感じがわかりにくくなっていました。

診療情報提供書には、「麻酔手技にトラブルはなく、MRIでも異常を認めない事から、経腟分娩に伴い骨盤部の神経を損傷した可能性が高い。」という内容が詳細に記載されていました。

彼女は1年間の出来事を話し始めました。

妊娠

1年半程前、彼女は初めての妊娠・出産を経験することとなり、近所で評判の産婦人科に通い始めました。そこで無痛分娩の説明を受けて同意し、初めての出産の日を迎えました。

出産の翌日、トイレに行くと、麻酔は切れているはずなのに、会陰部の触った感じがわかりにくい事に気づきました。

病院のスタッフに伝えると、MRIなどの検査を受け、体には異常がない事を伝えられました。病院長からは「無痛分娩の手技自体には問題なかった。しばらくすると症状は回復する。」と説明を受けました。

けれども、数カ月が過ぎても症状は回復しませんでした。病院側は、最初の頃は丁寧に対応してくれていましたが、だんだん対応を断られるようになり、電話にでてもらえなくなりました。

彼女は、他の産婦人科宛に紹介状を書いてもらい、そこで定期的に診察を受けていました。しかし、最初の病院で「しばらくすると症状は治る」と言われたのに治らない事で不安が募りました。そこで、大学病院の脳神経内科に紹介してほしいと主治医に頼み、今回私の外来を受診することになりました。

 

彼女は、初めの方は朗らかな様子で話をしていましたが、病院からクレーマーのように対応された事などの話になると、目に涙を浮かべ、「初対面なのにすみません。」と私に謝りました。

私には、彼女はとても聡明で、合理的な考え方ができる人に思えました。同時に、ここまで合理的に話ができる人が涙を抑えられないほど、彼女は苦しんでいるのだと感じました。

 

彼女の希望は以下のようなものでした。

  • 経腟分娩による神経障害と一貫して説明を受けているが、本当にそうなのか。納得のいく説明をしてほしい。
  • この症状は本当に治るのか?いつ治るのか?どうしたら早く治すことができるのか?教えてほしい。

 

診察すると、会陰部のやや広範な部位の触覚低下、痛覚低下、温度覚低下などがありましたが、明らかな運動神経障害や膀胱直腸障害はありませんでした。また、同部位の痛みやしびれなどもなく、一見すると日常生活に支障をきたす事はなさそうに思いました。

「この症状で一番困っていることはなんですか?」

と聞いたところ、彼女は少し困った顔をして、いくつか理由を上げました。けれども最後に話した内容が、彼女が一番困っている事だと感じました。

「この症状のために、怖くて、気持ち悪くて、夫と1年間夫婦生活ができていません。夫は待ってくれています。私も自分の症状を無視すればできることはできると思っていますが、どうしても受け入れられなくて…私は治りたいです。」

 

現在の医療において、失った神経の機能を取り戻す治療というのはなかなか難しいです。軽度の障害であれば神経の自己修復により改善できますが、1年続いた神経障害が今後回復する可能性はかなり低いと思われました。

私にできることは、まず診察所見から解剖学的診断と病因診断をつけ、彼女が納得する説明を行う事だと考えました。

けれども、この症例の診断はとても難しいものでした。

診察所見だけからは、障害部位を一箇所に同定することが難しく、以下のような障害部位の可能性が考えられました。しかし、どの部位においても、彼女の症状をきれいには説明できませんでした。

骨盤内神経

無痛分娩前後ではっきりと症状に違いがでているので、このイベントが症状の原因となった事は想像できますが、

  • 骨盤内で児頭が神経を圧迫した事による神経障害
  • 硬膜外麻酔の一連の操作(事故や麻酔薬による毒性etc.)による神経障害

のどちらが原因となっているのか、証明するのは困難のように思えました。

ただ、私の印象としては、下記のように感じていました。

  1. 診療情報提供書を見る限り、麻酔時のトラブルはなく、麻酔の使用方法や使用量も適切だったようで、麻酔の手技自体に問題はなかったよう。
  2. しかし、児頭が骨盤内を圧迫したにしては、かなり左右対称で、対象となる神経がかなり広範に位置している。児頭の大きさは普通だったことを考えると、この児頭がここまで広範に均一に神経を圧迫する可能性はかなり低そう。
  3. 麻酔薬による毒性の可能性は残る(適切に使用されているが、薬を使用している限り、可能性を完全に除外することはできない)。

 

このようなデリケートな症例を一個人の判断で診断するのは大変危険だと感じ、外来医長・病棟医長に相談の上、症例カンファレンスで相談することとなりました。

白衣

私は、十分に準備してカンファレンスに臨んだつもりでしたが、スタッフの先生方の対応は否定的でした。

「生理学的検査も難しい部位で、他覚的所見も乏しい症例、しかも医療事故問題に発展しかねないようなデリケートな症例に安易に診断をつけるべきでない。」

「その女性は疾病利得はあるか。自覚的所見は本当に正しいのか。」

「診断がつけにくい事を丁寧に説明し、納得してもらうのが最善と思われる。」

 

それらの意見は、すべて合理的な意見だと思いました。

けれども私は、彼女に対して、そのような通常の対応をすることは不誠実のように思いました。また、彼女の苦しみを男の先生達に理解してもらう事はかなり難しいように感じました。

 

電気生理学的検査は、通常四肢や脳脊髄の神経等に対して行います。会陰部の神経に対して、専門書には方法が載っていますが、実際に行った事のある人は周囲にいませんでした。

そこで、電気生理を専門とする先生にメールで相談しました。先生からは「スタンダードが確定していないので勧められない。」という返事でした。

その先生にはとても親身に対応していただきました。私の診察所見を元に、複数回メールで相談させていただきましたが、やはり診断はつきませんでした。その先生からの一案として、当科の元教授で現名誉教授のS先生に相談する事を提案されました。現教授に伺うと、実際に診察していただくよう言われ、緊張しながらS先生にメールを送りました。

 

S先生にお会いするのは2回目でしたが、実際にお話したのはこれが初めてでした。パリッとしたスーツと帽子を纏い、とても紳士的な物腰の方でした。先生は、事前に送っていた私の診察所見を隈なく解析され、30問程の質問事項を用意されていました。

外来の一室を使って、S先生の診察が始まりました。詳細は省きますが、先生は私の気づかなかった他覚的所見を次々と見つけ、

  • 患者の心因性の症状ではなく、基質的疾患である。
  • 感覚障害の範囲が左右対称性で、特定の神経では説明ができない事、障害と正常領域の境界が不明瞭である事等から、児頭の圧迫や麻酔の針等による機械的な神経損傷というよりは、麻酔薬等の化学的損傷である可能性が考えられる。
  • しかし、明らかな障害部位や、どのようにして障害されたかは不明である。

と考察されました。

それらの言葉の一つ一つには根拠があり、とても説得力がありました。

また、一研究員の相談事項に真摯に向き合い、ここまで丁寧に対応・診察していただいたことに、とても感銘を受けました。

 

その後、私の言葉で彼女に説明しました。

彼女は、「症状が治らない可能性が高い」事に悲しみを隠せないようでした。私は、家庭を持つ同じ一人の女性として、彼女と話を続けました。

最後に「ありがとうございました。」と言葉を残し、彼女は診察室を後にしました。

 

私は彼女の苦しみを完全に和らげる事はできませんでした。けれども、同じような事で苦しむ女性が他にもいるのではないかと思い、症例報告として世に出したいと思いました。

決定的な検査結果もなく、診察所見だけではアクセプトは難しいとは思いましたが、S先生の指導を受けながら、原稿を作成しました。

いくつかの雑誌から断られましたが、最終的にこの症例を報告する事ができてよかったです。

彼女と彼女の家族が再び笑顔でいっぱいになる事を祈っています。

 

 

※お断り

ここでお断りしておきたいのですが、私は無痛分娩自体が危険であるとか、最初の病院の対応に問題があったなどと言いたいわけではありません。

論文にも記載しましたが、硬膜外麻酔薬の毒性などでこのような神経障害が起こる確率は、10000人中0.23人と非常に稀だと考えられています。特に今回使用された麻酔薬は合併症が起こりにくいタイプの薬で、調べてもあまり報告がありませんでした。麻酔の施術自体には問題がなく、発症直後には病院側から謝罪の言葉があり、しばらくフォローされていました。

ただ非常に稀な現象が起こり、経膣分娩自体でも神経障害が起こる可能性があることから、一個人の病院では、患者さんが納得できるような対応が難しかったのだと思います。

結局私達も、障害部位を1箇所で説明することはできませんでした。S先生からは、「このような症例の場合、しばらく経過観察を続けると答えが見えてくる事がある。」と言われました。

臨床の奥深さを実感した一症例でした。

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