ある日の朝、ラボのグループメールに衝撃のお知らせが飛び込んできました。
動物施設のRoom46でウイルス感染が確認され、この部屋のマウス達は全て隔離されます。
ラボは騒然としました。
ラボ内のマウス達の半分以上はRoom46で管理しています。
みんな手術等も続々予定していたのですが、全てキャンセルとなりました。
数日後、動物施設のスタッフとラボメンバー達とでミーティングが設けられました。
それによると、
- 今回のウイルスは非常に弱く、大人には影響がないが、新生仔で消化器症状を起こすウイルスである
- 基本的に糞口感染で広がる
- 現在4ケージのみで感染が確認され、そのマウス達は即処分される
- 他のケージは感染していなくても、通常は6週間から8週間隔離され、外に持ち出したり手術室に移動したりすることは許されない
- 4週間後に再度検査が行われ、それで1ケージでも陽性がでたらまたスタートオーバーになる
という感じでした。
ミーティングの後、多くのポスドク達がラボマネージャーの元を訪れ、この隔離によって自分達の実験計画がどれほど台無しになるかを声を荒げながら切々と語っていました。
「自分のグループじゃないところから感染がでて、糞口感染で、成体マウスには影響がないウイルスで、なぜ自分達が実験予定のマウス達をこんなにたくさん犠牲にしなければならないのか。
感染があった4ケージだけ処分すればいいじゃないか。」
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そして……私のマウス達も全てRoom46にいました。
私はみんなのように声を荒げて訴える事はしませんでしたが……絶望していました。
私は自分のプロジェクトと共同研究のプロジェクトで、昨年末から大量にマウスを増やしていました。
一言で "増やす" というと簡単ですが、技術補佐員がいない状態で、大きなプロジェクト2つ分のマウスを増やすのは本当に大変で、
年末年始も、夫や子供達に謝りながら動物施設に通い続け、ジェノタイピングやウィーニングをしてきました。
「君、マウスケージ、占領しすぎじゃない?」
「手術予定、多すぎでしょ。」
という同僚の皮肉めいた冗談に傷つきながらも、
半年以内に全てのバッチを揃えて手術etc.を終わらせるために、肩身の狭い思いをしながら動物施設に通い続けていました。
十分な数のマウスが揃ったところで、ブリーディングをストップし、まさにその前週から続々と手術が始まった矢先に、この隔離が言い渡されました。
8週間も待ってしまったら、苦労して増やしたマウスのほとんどが手術適齢期を過ぎて使えなくなってしまいます。
「私が今まで頑張ってきたことは何だったのか……神様って意地悪だな。」
と思いながら、私はみんなの叫び声を聞いていました。
私の精神的ダメージが大きかったもう一つの原因として、最近続々と学生さんがやってきて他のポスドクの手伝いを始めたのに、私には一人も配属されていなかった事もありました。
勿論、私のグループはお金が無くなったから学生さんに払う給料が確保できないとか、私はあと1年もここにいないし、1年契約の学生さんなどは付けられないとか、色々理由はあると思いますが、
―― 他の人たちは2人学生さんがついたりしているのになぜ?
―― PIは、私の前ではあれほど手伝う人を考えてくれていると言っていたのに、結局他のポスドクが優先されるのか。
というような、僻みのような感情も芽生えつつありました。
―― 全ては自分がグラントを獲ってこなかったから。お金の有無しでこんなに待遇に差がつくなんて、ラボに金銭的余裕があった時には気づかなかった。
―― でも今からグラントに応募したくても、実験補佐がいなくて全然書く時間がとれない。
―― 他のポスドクは実験は補佐員に任せられるから、グラントを書く時間がとれて、ますます金銭的な差が出て、その人達には別の補佐員がついて、私の方は手を動かし続けるだけ。
そんな悪循環が私を取り巻いているように感じていました。
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そんな負の感情で悶々としていると、ラボマネージャーが私の所にやってきました。
「あなたが一番たいへんな状況にいると思うから……」
そう言って彼女は、現在動物施設側に交渉して、せめて4週間くらいで手術が再開できないかなどお願いしていると話してくれました。
「今困っている事を教えて。なんとかできるようにできる限り交渉してみるから。」
と言われ、私は気が緩んで、それまで抱えていた気持ちを吐き出しました。
ラボマネージャーは、私の話を静かに聞き、そしてラボの現状(私の所属するグループの予算がどれだけ少ないか等)について説明してくれました。
そして、
「他のポスドクの補佐員であなたのヘルプができないか、色々聞いてみるからね。他に困っている事があったら、何でも言って。」
と言い、すぐに色々な人たちにかけあってくれました。
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翌日、ランチルームでぼーっとコーヒーを飲んでいると、一人のポスドクがやってきて声をかけてきました。
「君と話をしようと思って。僕の所に来週から学生さんが一人つくけど、一緒にシェアする?
でも彼はまだ素人だから、一から教えないといけないし、どれくらい信頼できる人かまだわからないんだけど……。
とりあえず、喫緊でやってもらいたい事ある?」
私はその申し出に感謝して、これから50ブロック程薄切(1ブロック200枚くらい)を予定している事や、今後のコラボ先とのミーティングの予定等を話しました。
彼は私の話を聞き終わってから言いました。
「それだったら、学生さんじゃなくて、僕のテクニシャンにお願いした方がよさそうだね。
彼も手術ができなくなったから時間とれると思うし、聞いてみるよ。」
そう言って部屋を出て、またすぐに帰って来ました。
「彼、OKだったよ。彼は仕事が早くないから、君みたいなペースでは進められないと思うけど、たぶん1日1ブロックが限界っぽい。
もし彼ができなかったら、僕がやるし。
みんなで手分けしてやれば、2週間くらいで終わると思う。
私は、彼がここまで言ってくれるとは思いもよらなかったので、その言葉に大変驚きました。
「本当にありがとう。言葉もないよ。」
私がお礼を言うと、彼は
「何言ってるんだよ。困っている時にお互い助け合うのが、ここのラボの基本方針でしょ。
それに僕も彼も、君みたいにたくさん子供いないから、ある程度遅くまで仕事できるし、大丈夫だよ。」
と答えました。
その言葉には一点の曇りもなく、本心から言っているように感じました。
「そうだね。私もいつかお返しできるように頑張るからね。」
私の心の中に、何か温かいものが流れ込んでいくのを感じました。