今の研究室に移って半年が経ち、ラボの長所や短所もだんだんわかるようになってきました。
長所として一番に挙げられるのは ”システムの構築” だと思います。
常にラボの中の風通しを良くし、数十人の優秀なポスドク達がお互い気軽に相談しあえる環境作りに力を入れています。
PAGEという館内アナウンスのようなものがあり、ちょっと用事があるとすぐにそれを使って連絡をとりあったり、呼び寄せたりできるようになっています。広い建物内で人を探すのにかける時間と労力を節約できていいなと思いました。
カンファでは、似たような実験をしている人たちが常にサンプルを提供しあい、無駄なサンプルを作る必要がないよう、毎回、Principal infestigator (PI)から厳しい指示があります。
また、大規模のブレインバンクを構築しており、各病院と連携して、それぞれの剖検脳の患者情報、臨床経過、アルゴリズム化された神経所見、血液・髄液サンプル、画像イメージ、遺伝情報、などが系統化されて保管されています。
臨床情報は医師、遺伝情報は遺伝子解析チーム、剖検脳は病理チームのプロ達が、それぞれの責任もって管理しています。
短所としては……短所と言えるのかどうかわかりませんが、PIの考え方に沿っていない結果やアイデアは、理由をつけて反故にされます。
また、ラボの方針に寸分の狂いもなく従って動いていないと、様々な方面から激しく軌道修正されます。ラボには20年以上勤務しているスタッフも数人いて、ラボの考え方が世界の中心のように話す姿を時々見かけます。皆、自分の職場に誇りを持っているのでしょう。
数人の先輩ポスドク達と話をしましたが、みんな口をそろえて、
「みんな最初は罵倒され、考えを否定され、何度も泣いた。いつか辞めさせられるんじゃないかと不安な日々だった。1年くらい我慢するとラボの方針や考え方がだんだんわかってきて、どう考えてどう行動すればよいかわかってきた。」
と言われました。
このラボでは何人ものポスドクが数カ月で辞めていったという話を初めて聞いた時、「その人たちは忍耐力がなかったのかな。」と思っていました。
けれども、多分、このような方針を受け入れて自分の考えを軌道修正した人達が残り、受け入れずに自分の信念を貫いた人達が去っていった、ということなのでしょう。
どちらとも正しい判断のように思います。
要は、自分の考え方の "コア" な部分がラボの考え方に近いか遠いかという事だと思いました。ある程度経験を積んだ研究者は、たいてい自分のコアを持っているように思います。
一方で、この研究室にはたくさんの学生さん達が、数カ月単位でローテーションして研修にやってきます。
彼らはたぶん20歳前後だと思うのですが、皆、揃って優秀です。
この研究室での研修の成果が直接自分達の将来に影響するので、彼らは毎日真剣に学び、実験に取り組んでいます。
彼らには、まだ ”コア” がありません。私達のようにまとまった知識が少ない分、より多くの事を吸収し、自分達の人生に反映していっているように思いました。
そんな、20代から70代までの非常に幅広い年齢層の人達数十人が一緒に働く現場を眺めていると、何となくその人達を神経細胞の分化に置き換えて考えるようになりました。
胚性幹細胞な人達
生まれてから小学生くらいまでは、増殖能を持つけれども分化能を持たない、幹細胞のようなイメージです。彼らは、自分は何が得意なのか、何に興味があるのかまだわかりません。宇宙飛行士、学者、発明家、芸術家、文豪、政治家、起業家……何にだってなれる可能性を秘めています。
三胚葉期の細胞な人達
10代後半くらいから、一部の人達はだんだん自分の進みたい方向が見えてくるようになります。
胚盤胞は、それぞれ外胚葉・内胚葉・中胚葉に分化します。外胚葉の細胞の一部は、神経系の細胞への分化が方向づけられます。10代で研究全般や神経科学の分野に興味を抱いた人達は、この外胚葉系細胞のような位置にいるように思います。
神経幹細胞な人達
自分の進みたい道を決め、神経科学系の大学に入ってきた人達は、神経幹細胞のようなイメージです。
彼らは、何となく神経系の細胞になる事は決まっていますが、まだ神経細胞になるか、グリア細胞になるか、決まっていません。
神経幹細胞は様々な因子によって、どの細胞に分化するかが変わります。大学生の人達も、賢人の意見や、多くの経験が成長因子となり、自分の進みたい方向性を決定していくように思います。
神経前駆細胞な人達
ある程度神経科学の知識や考え方を学び、自分の”コア”を持ち始めた人達は神経前駆細胞のイメージです。ある程度未分化ですが、”神経細胞になる” ことは決めていて、さらに様々な因子の影響を受けて成熟した神経細胞になっていきます。
新しいポスドクの人達は、だいたいこの位置にいます。いつか自分のラボを持ち、自分の考えや成果を次の世代に伝える事を夢見て、日々精進しています。
神経細胞な人達
PIとなって自分のラボを持った人達は、成熟した神経細胞のイメージです。彼らは、手足となって働く人達と連携して、自分の持てる力を最大限に発揮し、神経細胞としての役割を果たしていきます。
一方で、神経細胞は分化しきっているので、今まで受けてきた様々な因子の影響を受けなくなります。
これには、良い面と悪い面の両方があると思います。
PIが色々な人達の意見に影響されてコロコロ方針を変えると、ラボの考え方に一貫性がなくなり、何がしたいのかわからなくなってしまうでしょう。
その反面、価値のある意見や出来事を拾い上げることも、ある程度難しくなります。未分化な時期と違って、社会的地位や守るべき人達など多くのものを抱えているので、それらを犠牲にするかどうか天秤にかけることも出てくるかもしれません。
Senescent 細胞な人達
おまけですが、最近の自分の中でのホットな話題として、”Senescent cell (老化細胞)”という概念があります。
細胞株を培養していると、ある時期から分化をしなくなる事が知られており、このような細胞をSenescent cellと呼びます。この細胞はがん化の抑制に働いているなどと言われており、防御反応と考えられています。
ただ、最近、神経変性疾患の脳内でこのSenescent cellを除去すると病態が改善するという報告(こちら)があり、私の中には、老化した細胞の一部が、様々な有害因子を出して脳内環境を悪くする、というイメージがあります。
細胞の老化は不可逆的な細胞周期の停止に特徴的な分泌の表現型を伴う現象で、様々な細胞内および細胞外の要因から引き起こされる。 p16INK4Kという細胞周期停止タンパクは、加齢に伴う組織の変性を促し、動脈硬化や関節炎などに …
年齢に関わらず、柔軟な考えができなくなり、自分の考えが常に正しいと信じて他人を攻撃するような人達は、職場の環境を悪くすることがあると思います。このような状況は、私の中でSenescent cellが周りの細胞にダメージを与えているイメージです。
前駆細胞でいたい
私がもっとも興味を抱いている事は、PIや名誉教授のような立場にいる人達の中に、神経細胞のようにしっかりとした考え方を持ちながらも、幹細胞・前駆細胞のように新しい考えを受け入れ、常に自分を変化・成長させようとしている人達がいる、という事です。
このような人達の話を聞ける機会は少ないですが、そのような機会を得られた時は、自分にとってとても貴重な経験だと感じます。
一方、ポスドクのような立場の人達の中にも、入れるべき知識が少なくて幹細胞のように目標を定められない人もいれば、入れ込んだ知識で頭がいっぱいになり、成熟した神経細胞のように、変化を受け入れられず辛い思いをする人もいます。
自分自身を見直してみると、幹細胞から前駆細胞の間にいるような気がします。知識が足りず、様々な面で未熟だと思う反面、変化を受け入れることにはそこまで抵抗がありません(”素直” とよく表現されますが、これは誉め言葉でもあれば、戒めの言葉でもあります)。
私は神経細胞を目指しつつも、私の尊敬する人達のように、
「どんなに年をとっても、死ぬ直前まで神経前駆細胞の気持ちを持ち続ける人間でいたい。」
そう考えています。
One of the greatest pains to human nature is the pain of a new idea.
— Walter Bagehot (1826-1877)
人間性にとっての最大の苦痛は、新しい考えを受け入れる苦痛である。