去年末にアメリカから日本に帰国し、家族全員、新たな環境で再スタートすることになりました。
「お友だちはできた?」という私の質問に対し、子ども達は「うん。」と答えてくれていましたが、日常会話の言葉の端々から、それぞれ彼らなりに苦労してきた部分が垣間見え、それを両親には言わないようにしているようにも感じられました。
それはおそらく、私自身に余裕がなく、彼らに気を使わせてしまっていたからかもしれません。
帰国後すぐに臨床をする事になりましたが、急性期病院での12年ぶりの入院・救急診療業務はなかなかハードでした。
夕食の支度時間までに帰れなかったり、帰宅後すぐに急患で呼び出される事も多く、夫や子ども達にはかなり負担をかけて申し訳なく思っています。
私自身に目を向けると、やはり「ちょっと疲れているなー。」と思います。
今回、常勤医として久しぶりに診療業務に携わることで、ブランクの間に新たに認可された薬や治療法を覚えたりと、臨床の内容をかなり勉強させてもらっています。
またしばらく研究に身をおいていた事で、修練医の頃よりも患者さんの病態病理に目を向けた診療ができているようにも感じました。
当初大学院に入ったときの私の目標は、気づかないうちにある程度達成されていたような、そんな気持ちになりました。
ただ、常に新入院が入り、患者さんがよく急変するような毎日を送っていると、頭の中は臨床の内容でどんどん埋まっていき、朝起きる時も最初に急変しそうな患者さんの事を考えるようになってきました。
研究に関しては、当初予想していた通り全く進まず、モチベーションを維持できず、今後のアイデアも沸かなくなってきました。
こんな感じで研究を諦めるMD PhDはこれまでにもたくさんいたのでしょうし、今のような日本の医局制度が続く限り、今後も続いていくように思います。
それでも研究への意欲を維持し、環境を自分でつかむ人達だけが生き残ると考えれば、便利な淘汰方法かもしれませんが。
疲れていると感じるもう一つの理由は、アメリカとは異なる、日本における対人文化を考えるようになった事にもあるかもしれません。
帰国後、信じられないくらいの善意に触れる機会もあれば、今までは気づかなかった悪意を感じる事もありました。
ただそれらは表立って示されるものではないので、ここでは相手の言葉をそのまま信じるのではなく、相手の表情を伺い、行間を読み、忖度して行動する必要があります。
もちろん毎回ではありませんが、それらを必要とする機会がアメリカより格段に多いように感じました。
こんな時私はよく、人における性善説と性悪説などを考えてしまいがちになりますが、最終的にはいつも「(サイコパスを除いたほとんどの人達には)たぶん両方ともあるんだよな。」という考えに至ります。
困っている人に手を差し伸べたくなる、親切にしたくなる、人を傷つけたくない、そんな気持ちは多かれ少なかれ誰でも持っているとは思いますが、人が常にそのような気持ちでいるためには「自分がある程度満たされている」必要があるように思います。
当たり前ですが、人も動物も、基本的には「自分が一番大事」な生き物です。
その人自身に余裕が無い時や、自信が無い時、相手に対してネガティブな印象を持つ時など、人は自分を守るためにより自己中心的になったり、誰かに対して積極的にネガティブな言葉を投げかけたり、相手が不利に働くように行動してしまったりするように思います。
ただし、どのレベルの心的物理的ストレスや脅威までだったら、人は相手への優しさを維持できるのか、その threshold は個人によって異なりますし、同じ個人でも場合によって異なると思います。
教育レベルは最も大きな修飾因子1つとなり得ると思いますが、相関係数はそこまで高くなく、他の因子も複雑に関係してくるように思いました。
以上の事は、私自身にも当てはまる事です。
このような時こそ、
- 人は自分の鏡だと常に意識し、
- 毎回生じるイベントに対して感情的に反応せず、
- そのイベントが起こった根本的原因を自分の中で熟考し、
- 十分に内省した上で、自分の言動としてアウトプットする
よう、日々心がけていきたいと思います。
今年もよろしくお願い申し上げます。
2023年1月