Rosa-Parks

帰国前、アメリカのボスから、

「日本であなたのような女性が活躍するには、まだまだ大きな障害がある。日本に帰ったら、あなたはもっと声を上げなければならない。」

と言われました。

その時、私は頷きましたが、同時に、

「声を上げることは、日本では美徳とされないから、そこで声を上げれば、逆に自分の首を締めることになるだろう。」

とも思っていました。

「声を上げない」ことが大体正解

その後、帰国し、個人的に思うことは色々と出てはきましたが、

「ここで何かしらの声を上げれば、自分は潰れるだろう。声を上げる時があるとすれば、それは今ではなく、もっと年をとり、影響を受ける立場から影響を与える立場へ変わってからだろう。」

と考えました。

多くの社会人にとって、これが「正解の選択肢」と言えると思います。

「声を上げる」ことで歴史が変わることも

一方で、自分の立場を危うくしてでも、声を上げて、歴史を大きく変えた人たちもいます。

それは必ずしも、多くの人々を先導するようなリーダー的存在の人たちだけだったわけではありません。

ここで頭に浮ぶのは、アメリカの公民権運動の始まりとなり、黒人差別を根本から見直すきっかけとなった、ある女性の行動です。

バスで席を譲らず逮捕

彼女は、アメリカ・アラバマ州モントゴメリーに住んでいた、黒人女性のローザ・パークスさん。

1955年、バスの中で白人に席を譲らなかった罪で逮捕されました。

 

当時、アメリカ南部では、19世紀に奴隷制度が廃止された後も、人種隔離政策(ジム・クロウ法)という形で、黒人に対する差別が続いていました。

トイレは白人用と有色人種用があり、バスの中でも、前の方は白人の席、その後ろが黒人の席となっていました。

そのバスも、お客さんの入り状況によって、バスの運転手が白人席と黒人席の境界を移動できるようになっていました。

 

その日、ローザさんは黒人席の最前列に座っていましたが、次第に白人の乗車数が増え、バスの運転手さんが境界を1列ずらし、前列に座っている黒人に立つよう命じました。

他の3人は席を空けましたが、ローザさんだけ立ちません。

「なぜ席を立たないのか。」

と尋ねられても、

「立つ必要性を感じません。」

と答え、離席を拒否します。

結局、警察が呼ばれ、彼女は市条例違反で逮捕されました。

当時の制度を考えれば、席を立つべき

今であれば、その時の人種隔離制度の方がおかしいと、多くの人が感じると思います。

けれども当時の制度下では、その時に「席を立つ」のが正しい行動ということになります。

もし私がその場にいた場合、

「さっさと席を立てば、バスが止まって乗客に迷惑をかけることもないし、彼女も逮捕されないし、日常生活がそのまま流れるはずなのに、なんでこの人は頑なに拒否するのか。自分勝手な人だなあ。」

と思ったかもしれません。

 

けれども彼女は、ある信念を持って席を立ちませんでした。

その時彼女は「席を立つべきでないと思った。」と後に語っています。

彼女の行動がアメリカを変えた

けれども、当時は非常識とされた彼女の行動が、後に全米を巻き込む公民権運動へと広がりました。

彼女の逮捕の知らせが伝わると、モンゴメリーにあるバプテスト協会のマーティン・ルーサー・キング牧師らが抗議運動に立ち上がり、モンゴメリーの全ての黒人にバス・ボイコット運動を呼びかけました。

そして、1956年、連邦最高裁判所が「バスの人種隔離は違憲である」という判決を下し、公共交通機関における人種差別は禁止されました。

キング牧師はその後も全米各地で公民権運動を指導し、1964年、公民権法が成立しました。

「バスで席を譲らない」という日常の行動が、アメリカの法改正に繋がったわけです。

現在も、アメリカでは毎年1月第3週を「マーティン・ルーサー・キング牧師の日」として、その1ヶ月間は黒人差別について考えるイベントがたくさん開催されています。

「常識」の方が間違っている可能性

ここで私が考えるのは、

「常識的に考えて行動すべきこと明らかでも、その常識の方が間違っている可能性もある」

ということです。

そして、それに対して声を上げることで、「常識の方が変わる可能性」があるんじゃないかと思います。

身近なところでも起こる「常識の変化」

例えば、ローザさんの行動とは規模が違いますが、私は以前、子供が生まれた時に、職場併設の待機児童施設が10月から3月までしか運営されないことに対して、意見したことがあります。

その待機児童施設は生後2ヶ月から赤ちゃんを預けることができますが、地域の認可保育園は6ヶ月からしか利用できません。

例えば子供が冬に生まれた場合、3月までは待機児童施設に預ける事ができますが、4月から数カ月間、預ける場所がなくなります。

なので、働くお母さん達からみれば、8月から9月の間に出産したほうが、他の月に出産するよりも有利ともいえる状況でした。

 

私は、

「待機児童施設を利用する関係で、赤ちゃんの出産時期を計画するのも変な話ではないか。」

と施設職員に尋ねました。

 

しかしその時は、

「世の中には待機児童施設すら利用できなくて困っている母親がたくさんいる。その中で、半年だけでも施設を利用できることに感謝できないのか。」

と言われました。

 

当時、待機児童が深刻な問題となっており、保育園に子供を預けられないお母さんが全国にたくさんいました。その職員さんが言ったことはある意味正しいといえます。

国や職場の限られた予算の中で、1年を通して待機児童施設を運営するのは現実的に難しかったでしょう。

「私達は、半年その施設を利用できるだけでも感謝すべき」

というのが常識的な考えだったかもしれません。

 

 

けれどもその数年後、私達の利用していた待機児童施設は通年で運営されることになりました。

私と同じように意見したお母さんが他にもいたのかもしれません。

私は、

「現状に『感謝』するだけで、改善を求めていなければ、その制度はいつまでも変わらなかったかもしれない」

と思います。

 

実際、その施設を利用しているお母さんと話した時に、

「以前は半年だけなんて、そんなことがあったんですか。そんなの、困りますよね。」

と言われました。

この会話の中で、以前なら「非常識」と捉えられた言葉も、環境が変われば「常識」的な言葉へと変わるように感じました。

声を上げる重要度とタイミングを考えるべき

ただ私は、やみくもに自分の主張のみを展開することが良いことだとは思いません。

 

もちろん、実際に困ったり不満に思っている人たちからリアルな声を届けることは大切です。

けれども、ただ大声を上げて不満をぶちまけるだけでは、ただの「文句ばかり言う人」で終わります。

 

考えるべきは、「声を上げるべき重要な案件なのか」ということと、「今、声を上げるタイミングなのか」ということだと思います。

声を上げるべき重要な案件なのか

私は、ローザさんの行動を「当時は非常識」と書きましたが、当時、人種隔離政策に疑問を持っていた人たちがたくさんいました。

だからこそ、ローザさんの行動が起爆剤となり、リーダーを先頭にして多くの黒人が立ち上がったわけです。

 

当時のアメリカは、黒人が白人街に住むだけで暴力の対象となり、白人から理不尽に殺害された黒人もたくさんいました。

この問題は、人々の人権に関わる、重要な案件だったと言えます。

 

現在の私たちの周りにも、様々は不条理な制度や慣習があり、それによって困っている人達がいます。まずはそこに目を向ける必要があります。

声を上げたいと思う内容は、本当に自分の為だけではなく、自分以外の人たちや後世の人たちの為になるものなのか、それをじっくりと考えるべきだと思います。

今、声を上げるタイミングなのか

いくら重要な案件と言っても、声を上げるタイミングを間違うと逆効果となるかもしれません。

まずは周囲を観察し、声を上げた方がよいのか、声を上げるべき人物は自分なのか、他に適した立場の人がいないか、など、色々考える必要があると思います。

 

ときに乱暴な方法で事態が変わることもありますが、これまでの世界近代史をみても、そのような行動は成功しないことがほとんどです。

自分の死後に何かの影響を与えることはできるかもしれませんが、自分自身は自滅して終わることになります。

 

衝動的に大きな声を上げるよりも、まずは周囲の声を拾い続けることに注力し、必要に応じて、適切なタイミングで、適切なレベルの声を上げていくのがいいんじゃないかなー、と思います。

 



 

まあ、この記事を書いたからといって、特に何かの革命を起こそうと考えているわけではないので。

ただ、最近仕事などに忙殺されて、以前考えていたことを順次忘れていきそうだったので、後から思い返せるよう、文章に起こしておくことにしました。

あしからず。

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