ラボ最後の日の翌日、バタバタと家の引っ越し準備をしていながら、私はある事が気になっていました。
ーー あー、まだ整理していないサンプルがあった。
それに、昨日はあっという間に一日が過ぎてしまって、ラボメンバー全員に御礼の挨拶を言う事はできませんでした。
特に気になっていたのは、
「忙しいと思うけど、最後に話がしたいから、時間がとれたら教えて。」
と言ってくれていた、助教の S の事でした。
ーー 昨日は結局時間がとれなかったなー。今日ラボに言ったら会えるかな。
そんな事を悶々と考えていると、やっぱりラボに行きたくなってきました。
「ごめん、ラボに用事が残っているから、ちょっとだけ行ってきてもいいかな?」
夫に頼み、私は結局ラボまで車を走らせました。
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ラボにつくと、残っていたサンプル整理に急いでとりかかり、そして S にテキストしました。
「今、時間つくってラボに来たけど、会えるかな?」
ところが、S からはなかなか返事がきません。
彼女は最近、助教になって初めて大型グラントをあて、テクニシャンをやとったり、海外との大型共同プロジェクトを立ち上げたりして、それこそ毎日忙しく過ごしています。
よくオンライン会議しているし、たぶん会議中か何かで電話に出られないのでしょう。
私は、
―― この整理が終わるまでに会議が終わればいいな。
と思いながら、彼女と過ごした日々と思い出していました。
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彼女がまだポスドクだった頃、私達は同じ部屋で仕事をしていました。
彼女はスペインから来たポスドクで、とても陽気な性格で周囲を笑わせていました。
私に対しても、実験中、意味なく近づいてきては何らか笑いをとって帰っていったりしていて、和ませてくれていました。
以前私は、このラボを出ようかと本気で考えていた事がありましたが、その時、親身に相談に乗ってくれたのも彼女でした。
「ここにくるポスドク達は最初はみんな辛い思いをしているし、私も1,2年はずっと悔しい気持ちで過ごしていた。何をやってもPIから認めてもらえなくて、『実験が失敗するのはあなたのせいだ』みたいに言われ続けて。悔しくて眠れない夜もあった。
でも、その時私は自分にいいきかせてきたの。
『こんなに詰られているけど、PIは私をクビにしていない。本当に私の事をダメだと思っていたら、さっさとクビにしているはず。そうしていないって事は、まだ大丈夫って事。クビって言われるその日まではそれまでとことん頑張ってみよう』
って。その後、いい結果が出るようになって、だんだんとどうしたらいいかもわかってくるようになって、辛い気持ちも少なくなってきたの。
ここをやめて別のラボに行くのも一つの選択肢だと思う。別のラボでもいい研究はできると思うし。
でも、PIはあなたの事をクビって言ったりしていないでしょう?私が知る限り、PIはいつもあなたの事を褒めてばかりいるわ。何か言われたとしても、クビにされない限りそれは期待されているって事だし、このラボに残るっていうのも、もう一つの選択肢だと思う。」
彼女が助教のポジションを得てポスドクを探していた頃、条件を満たすレベルのポスドクがなかなか決まらず困っていた時は、
「あなたが私のポスドクになってくれたらいいのになあ。今から契約書かくから、ここにサインしてくれない?」
と言って、コピー用紙の裏側に手書きでポスドク契約書を書いてサインを求められました。
私が冗談でサインをすると、
「あーあ、もう契約しちゃったからね。これずっと持っておくから。その気になったらいつでも雇うからね。」
と言って、笑いながらそのコピー用紙を持っていきました。
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ラボの整理が終わっても、彼女から連絡は来ませんでした。
―― もう家に帰らないと、家の整理も大変だしな。
と思い、私は彼女にテキストしてラボを出て、駐車場まで向かいました。
車を走らせ、高速道路の手前で信号待ちをしていると、彼女からテキストが届きました。
「今会議が終わった!もう帰っちゃった?まだいるなら話したい!」
私はすぐに彼女に電話をかけ、車をUターンさせました。
ラボの建物が近づくと、彼女が前で立っているのが見えました。
私は建物に車を横づけしました。
「よかった!ギリギリ間に合って!私、あなたに渡したいものがあったの。何にしようか迷ったんだけど、飛行機の荷物でかさばらないようなものがいいと思って。」
そういって、彼女は小さな包み紙を差し出しました。
可愛いおさるの包み紙を開けると、民族衣装を着た可愛いキャラクターの絵が描かれた小さな盃コップが2つ入っていました。
「私の故郷のカタロニアのコップなの。これをみたらカタロニアと私の事を思い出してもらえるように。」
彼女は言いました。
「あなたに伝えたい事があるの。あなたの事、私はすごく尊敬している。日本でも、みんなから尊敬されるべき人物だと思っている。自信を持ってね。誰もあなたの心を傷つけさせたり、落ち込ませたりしたらだめよ。
もし誰かがあなたを傷つけようとしても、気にしないようにね。ここのみんなはこんなにもあなたを慕っているし、尊敬しているし、あなたもそれを感じているでしょう?それをずっと覚えていてね。あなたなら日本でもきっとうまくいくわ。」
私は彼女に御礼を言い、「必ずそうする」と約束しました。
「あと、私はあの契約書まだ持っているからね!私のポスドクとして、いつでもここに戻ってこれるからね!」
彼女はそう言って、いつもの、クシャっとした満面の笑みを浮かべました。
建物の前で2人で写真を撮り、何度もハグをすると、私は車に乗り込みました。
「ちょっとの間離れるけど、またすぐに会えるからね。とりあえず、来年の国際学会で会うよね?お互い近況報告しようね。いい?」
窓越しにそう言う彼女に、私は「もちろん!」と答えました。
車が動き出すと、バックミラー越しの彼女は、その姿が小さくなるまで手を振り続けていました。
彼女の姿が見えなくなるとすぐに、高速道路の入り口が見えてきました。
「次に会うのはどの国際学会にしようかな。」
と思いながら、私は思いきりアクセルを踏み込みました。